罪悪感を光に変換する
2018年のお正月は、ほぼ新品の片栗粉の袋を床に落としてぶちまけるところからスタートしました。
おかげで、新年早々、床掃除を丁寧にやらざるを得なかったという・・・
フローリングの隙間にまで片栗粉が入りこんじゃいましたからね。
そんなお正月の夜、キッチンでシンクをふいていました。
そしたら・・・突然、強烈な罪悪感が思い出と共にフィードバックしてきたんです。
このブログの目次
強烈な罪悪感となってしまった過去
それは、私が小学校低学年の頃の話。
私が飼っていた小鳥を死なせてしまうという事件が起こりました。
父親に強烈に怒られたのは、後にも先にもその時だけです。
優しい父に怒られたという衝撃と、自分が命を奪ってしまったというとてつもない罪悪感に押しつぶされそうになりました。
でも、その時私は泣かなかったんです。(記憶が曖昧ですが・・・)
辛すぎて向き合えずに、逃げてしまいました。
感じることをシャットアウトし、「無」になり、そこまで意味がわかっていないようなフリをしたように覚えています。
だからこそ、猛烈に怒られました。
そして、抑圧してしまった罪悪感は、私の人生の中でことあるごとにフラッシュバックすることになります。
この年になるまで、何度も何度も、小鳥を死なせてしまった罪悪感を思い出し、胸が押しつぶされそうになるということを繰り返してきました。
思い出した時の感覚は、何十年経っても変わらなかったんです。
ただただ、その気持ちを許し、一緒にいることを選んだ
そして、このお正月。
何年振りかに、その罪悪感が猛烈に襲ってきたのです。
とにかく感じ切ろうと思いました。
自然に「ごめんなさい、ごめんなさい」と、何度も何度も言いながら、泣いていました。
このことを思い出すと必ず、芋づる式で、10歳から飼い始めた犬にも「もっと大事にしてあげられたのに、子供の頃の私はしなかった」という後悔が出てきて、胸が苦しくなるんです。
「子供だったんだから、仕方なかったんだよ」
なんていう言葉は過去に何度も自分に言いましたが、そのような「あきらめの質」のエネルギーでは、クリアになりませんでした。
とにかく、この気持ちが存在していることを自分に許し、ごめんなさいって言いたいだけ言い続けました。
そして、ただただ、その気持ちと一緒にいることを選びました。
罪悪感もギフトだった
数分後・・・、ふと降ってきたのは
「私はこの罪悪感を持つことで優しくなれたんだよ」
という言葉でした。
この気持ちがあるおかげで、私は「今度こそは絶対に大事にする」という強い決意をしていました。
だから、その後に飼った犬たちは、本当に大事にしています。
(人間同様の扱いをすることが大事にするとも限らず、犬は犬として扱ってあげる必要もあり(人間がちゃんとボスらしい行動をしてやること)、そこが難しいところなのですが・・・)
そして気づきました。
ペットたちは私に「命の大切さ」を教える為に、私のところに来てくれたんだ。
それこそ、無条件の愛だった。
ペットたちは私に無条件の愛を教えてくれていたんだ・・・
罪悪感を持ち、そのことで苦しい思いはするけども、それが私の「命を大切にする優しさ」という無条件の愛へと変換されていたんだ。
そう気づいたら、「ごめんなさい」が「ありがとう」に変わりました。
今度は、「ありがとう」を連呼しながら、号泣。笑
キッチンの前に立ち尽くしたままの数分間の出来事でした。
そして、私のペットたちは「私が罪悪感を持つきっかけとなった存在」から「私に無条件の愛を与えてくれた存在」に私の中で変わりました。
きっとペットたちも喜んでくれていると思います。
罪悪感の存在価値
罪悪感は持っていていいことなど何もない、と言われたりもします。
確かに、強烈な罪悪感は自分を痛めつけてしまうこともあるし、やっかいなものかもしれません。
ない方がハッピー。確かにそうです。
でもね、私は「日本人の優しさ」というのは罪悪感が源なのかもしれないと思ったんです。
日本人は罪悪感の強い国民性です。
鬱も多いです。
自分に自信がない人も多いです。
戦後にとられた罪悪感政策のせい?
そうかもしれません。
でも、「植えつけられた罪悪感」という認識から、私たちは次元を変えていく時が来ているような気がします。
罪悪感の強い人は、きっと人に優しいです。
それは素敵なことです。
一見優しく思えないような行動をしてしまっている人もいるかと思います。
でも、元を手繰っていくと、その人の優しさが観えてくるんです。
ただ、問題なのは、強烈に自分を責めてしまうこと。
必要以上に。
それは結果的に人を責めることにつながる。
そのことで実は、自分がもっともっと傷つく。
つまり罪悪感などのネガティブな感情に捉われている限り、完全なる本来の自分を生きることが出来ない。
次元が変わらないんです。
私はずっとずっと、この罪悪感から解放されたかったです。
でも、いつまで経ってもフラッシュバックするこの記憶はなくならない。
消したいと思っても、絶対に消えない。
だけど、「私は罪悪感を持つことで優しくなれた」。
そう腑に落ちた時、
「そうか、罪悪感ってあっていいんだ。」
って思いました。
「罪悪感のおかげで優しくなれた。
今まで追い出そうとしてばかりいたよね。ごめんね。
これからは一緒に生きていくよ」
と、私の中の罪悪感に言っているような感じです。
そうするとね、気にならなくなっちゃいました。
今はこうしてブログにも書けるくらい、フラットに罪悪感を捉えています。
「あるんだよね~、罪悪感!」と軽やかに言っている感じ。笑
それはもはや罪悪感ではないのかもしれませんね。
存在を認めた上で、捉われない
罪悪感だけではく、自分の中にあるネガティブな感情って、あんまりあってほしくないですよね。
でも、あるのが人間です。
私がその存在を認めた上で、捉われずに済むようになったのはなぜか?
それはここまでに書いたように、
「私が長年持ち続けていた罪悪感という闇の中にある光を見つけたから」です。
こんな私いなくなっちゃえ!って思う、その中に絶対に絶対に「光」があるんです。
最悪!って思っていることこそ、まばゆいほどの輝きの源なんです。
ぜひ、あなたの中の「光」を見つけて、輝きに変えてください。
More from my site
最新記事 by 奥 敬子 (全て見る)
- 一番大切な存在を失った地獄と天国 - 2024年11月14日
- 50代で美しく12キロのダイエットに成功。その秘訣(タイプ9) - 2024年11月6日
- 今すぐ自分を深刻な気分から救う方法 - 2024年11月1日